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2006年07月21日
◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(一)

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(一)
◆◇◆百人一首とかるた遊び、競技かるた大会
http://www.karuta.net/link1.html
第二十八回全国高校小倉百首かるた選手権大会(競技かるた大会)(※注1)が七月二十二日から、滋賀県大津市の近江神宮内の近江勧学館で始まる。全国の予選を勝ち抜いた高校の代表生徒たちが熱戦を繰り広げる大会である。
団体戦は七月二十二日、個人戦は七月二十三日行われる。近江神宮の祭神、天智天皇の句が百人一首の一番になっていることから、日本高校かるた連盟が「かるたの甲子園」として、二十二年前から毎年夏に開いている。団体戦では、各高五人ずつ横一列に座り、相手との間に置かれた五十枚の札を、素早い瞬発力で奪い合います。上の句が読み上げられると、しんとした会場に、眼にもとまらぬスピードで、かるたを弾く大きな音が響き上がるそうだ。
◆◇◆百人一首とかるた遊び、近江神宮と天智天皇
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/001.html
「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ」は、百人一首の巻頭の一首である。天智天皇が詠んだ歌として、多くの人が知っている歌でもある。その天智天皇の御鎮座である近江神宮で、毎年繰り広げられるお正月のかるた大会でも有名な神社だ。
近江神宮は、昭和十五年創建と比較的新しいが、広大な神域は鬱蒼とした木立に囲まれ、万葉集に「さざ波の志賀の都・・・」と歌われた近江朝廷のあった大津京の北西端に位置している。神域には住宅地が迫り、傍らには比叡山に登るドライブウェイが走るのが嘘のような別世界だ。
また、時刻制度を確立した天智天皇が祀られており、「時計博物館」には現存唯一の垂揺球儀をはじめ、珍しい時計が集められており、七百点が展示されている。すぐ側の錦織(にしこおり)地区には、六七二年、壬申の乱の戦火によって、四年五ヶ月の短い命を終えた都の礎石が並ぶ大津京大極殿跡(※注2)がある。
近江朝廷での施策とされるものとして、近江令(憲法の源)、勧学院、国学(最初の公立大学)、庚午年籍(最初の戸籍)、班田収授法(最初の農地法)、漏刻(水時計)、水碓(みずうす)を使う金属精錬、指南車(磁石)と水はかり(水準器)の使用、燃ゆる水(石油)と燃ゆる土(石炭)の採掘などがある。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 「競技かるた」は、藤原定家によって選出された「小倉百人一首」の「歌かるた」札を使用して行なわれる競技である。現在競技かるたを行う団体としては社団法人「全日本かるた協会」があり、その傘下に全国約百の競技団体がある。競技人口は約十万人とも言われている。
競技のルールについては、一般的にはかるたと聞くと、大勢で札を囲んで、読み手が読んだ和歌の下の句の書かれた取り札を探す場面を想像する。これはいわゆる「お座敷かるた」あるいは「散らし取り」と呼ばれるゲームである。競技かるたは、大まかなルールはお座敷かるたと同じなのだが、それを一対一で行ない、取った枚数で勝敗を争うのではなく、先に手元の札を無くした者が勝ちとなる点で異なっている。
また、競技かるたの試合において使用されるのは、小倉百人一首の札百枚のうち五十枚のみで、残りの札五十枚は読み手によって読まれるものの、その場には存在せず、取られることのない「空札(からふだ)」となる。この空札があるために、その場に無い札を触るお手つきが発生し、競技の面白さが増す。
(※注2) 「近江大津宮錦織遺跡」:六六三年の白村江の戦いの後、六六七年三月中大兄皇子は都を飛鳥から近江へと遷都する。そして翌年一月に天智天皇として即位した。
遷都の理由については諸説がある。白村江の戦いで敗戦しているため唐・新羅連合軍に攻め込まれたときのため、飛鳥の有力豪族との関係、琵琶湖西岸には大友皇子が養育された大友郷があり六世紀後半頃から大陸や朝鮮半島から渡ってきた渡来人の子孫が多く住んでいたからなど様々である。
天智天皇は天皇を中心とする中央集権国家を目指したが、遷都五年でこの世を去り、この後に起こった壬申の乱によって都は再び飛鳥に戻された。大津に都があったのはわずか五年間であった。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月21日
◆滋賀県大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(三)

◆滋賀県大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(三)
◆◇◆日吉大社の山王祭、「午の神事」奥宮から神輿を勇壮に担ぎ下ろす
4月12日夕刻(午後7時半ごろ)、滋賀県大津市坂本の日吉大社で、山王祭の中心となる「午の神事」が日吉大社境内で行われた。夕闇が迫る中、坂本の広場に松明を持った若者達(白襦袢に褌姿の「駕輿丁(かよちょう)」と呼ばれる担ぎ手の男たち約二百人)が集まった。
これから始まる神輿の担ぎ下ろしをする若者達の名前が高らかに呼ばれ、祭りへの意気込みが高まり、松明を持った若者達は八王子(牛尾)山へ威勢よく向かう。
駕輿丁(かよちょう)たちは、八王子(牛尾)山の頂上の奥宮(牛尾宮・三宮宮)に向かった登りはじめるが、急な坂のため、約30分かけて奥宮に着く。
八王子(牛尾)山の頂上には、巨石・金大厳(こがねのおおいわ)が屹立し、その両側に奥宮(山宮)の牛尾宮(大山咋神荒魂)と三宮宮(鴨玉依姫命荒魂)が東の崖にせり出して建つ。
それぞれの奥宮には神輿が今にも担がれて山を下りる体制にあり、周りは駕輿丁で身動きできない状態で、若者達の熱気が立ちのぼっていた。
暫くすると、鈴振りが火の輪を回しながら勢いよく駆け上がってきた。すると、神職の打ち鳴らす神鈴の音を合図に牛尾神社・三宮神社の順に、赤々と燃える松明で照らされた坂道を、「よいそら」などと威勢の良い掛け声をかけながら、担ぎ手ら約二百人が2基の神輿を担ぎ下ろす。
神輿は不安定な石段やぬかるんだ山道を二本の竹で支えながら運ばれ、大きくぐらつく度に、待ち構えていた見物客から大きな歓声と拍手が沸き起こった。
やっとの思いで東本宮に入御した神輿は拝殿に按置された後、神輿の後と後を繋ぐ、「尻繋ぎ神事」と呼ばれる大山咋神とその妃の鴨玉依姫命の結婚の模様を伝える祭典が厳かな雅楽と共に執り行われて、午後9時半ごろ当夜の行事を終えた。
13日は、午後1時から、桜で彩られた参道を稚児が歩く「花渡り式」、夜7時からは神輿を激しく揺さぶる「宵宮落し神事」が営まれ、15日の「酉(とり)の神事」で幕を閉じる。
スサノヲ(スサノオ)