この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。
2006年07月28日
◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(八)

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(八)
◆◇◆出雲の国とスサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)、和歌「八雲立つ・・・」
出雲の国に降ったスサノヲ命は、ヤマタノオロチ(八俣大蛇)からクシナダ姫(櫛名田比売・奇稲田姫)を救い、姫を妻に得て、須賀の地に新婚の宮を建てたとされている(英雄神としての性格)。
この時詠んだ歌が「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を(夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁)」(『古事記』)(※注1)であり、『古今集仮名序』(※注2)などに見られるように、古くから和歌(短歌)の起源と信じられてきた。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)数は、きわめて精神文化的な意味を有し、単に物量を数えるための手段・方法、記号としてのみ機能するのでないようだ。古代中国の陰陽思想では割り切れない奇数が尊ばれ、偶数は忌み嫌われたとされた。古代日本でもその影響を受けて「三」や「五」「七」などが聖数として扱われた。しかし、その一方で、中国でも「四」「八」は重視されていたようで、古代の日本ではことのほか神聖な数として「八」が好まれた。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は本来、土地誉め・祝婚の古代歌謡であったようだが、『古事記』ではスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)の歌とする。盛んに沸き立つ瑞雲に霊力を見、そこに新妻(神に通じる霊力を持つ巫女)を迎える慶びを言う祝歌であったようだ。
「八」は単に多数である意を示すだけではなくて霊力のこもる数・呪言なのであろう。さらに「八雲立つ・・・」の歌では数詞「八」が四回用いられており、この「八」は実数としては使われておらず、数が多いことを表わす比喩となっている。
「八」のように「八百万の神」「八咫の鏡」等の神話に多用される数を聖数とよび、多数や無限大を意味すると同時に、神秘的、魔力的な力を持つ聖なる数であると考えられていた。
「八雲立つ・・・」の歌は、高天原で天つ罪(高天原での八つの罪)を犯して追放されたスサノヲ命が、ヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治して罪を贖い、地上の英雄として再生した後、結婚することを、聖数「八」を重ねて謡うことで寿ぎ承認するという意味合いを持つとも考えられる。
ある数が実数ではなく聖数としての力を発動することによって歌に神秘的な力を与え、祝歌(ほぎうた)を作る過程を、三十一文字の最初の歌が示しているようである。
(※注2)『古今和歌集』(九〇五、最初の勅撰和歌集、撰者は紀貫之)の序文は、紀貫之の和歌に対する優れた見解が述べられている。真名序(漢文序)によると、わが国では、スサノヲ命の時代から歌が始まったと書いてある(平安時代に何人かの人が書いているので、当時の通説であったようだ)。
仮名序(かなじょ、「やまと歌(和歌)は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞ成れりける・・・」 紀貫之)のほうでは、下照姫から歌が始まったと述べているようだ。 『古今和歌集』真名序(漢文序)「和歌未作、逮于素盞烏尊、到出雲國、始有三十一字之詠(和歌いまだ作(おこ)らず、スサノヲ尊の出雲の国に到るに逮(およ)て、初めて三十一文字の詠あり)」。 『古今和歌集』仮名序「世に伝はることは、「久方の天にしては、下照姫に始まり、・・・人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける、『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』」
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月28日
◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(十)

◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(十)
◆◇◆日吉大社の山王祭、山の民の東坂本(今の坂本)と西坂本(今の京都の八瀬)-2
西坂本といわれた今の京都の八瀬(八瀬童子と称する八瀬の人々は、代々鬼の子孫であると自ら公言している)には、八瀬天満宮があり、道を約200メートルほど上がった所に、かつて山王の坐した場所であったそうだ。そこは「御所谷」と呼ばれ、足利尊氏に追われて比叡山に逃れた後醍醐天皇の行在所でもあると伝えられている所である。
そこから60メートルほど下った所に、地元で「べべ、してたもれ」と言い伝えのある所がある(椎の大木が目印)。地元の言い伝えによると、八瀬にはもともと七基の神輿があり、そのうち3基が坂本の日吉大社に行ってしまったという。そして残った4基のうち2基をそこの椎の大木の根元に埋めたそうだ。
そしてそこを通る時、地元の人たちはかつて「べべ、してたもれ」といって3個の石を投げたという。「べべ、してたもれ」とは「着物を着せてください」という意味で、「御生(みあれ)祭」で新たに生まれた御子神に「産着を着せてください」ということだそうである。そしてそこを通った時、必ず石を3個拾って、椎の大木の根元に投げるという風習が残されたと考えられるのだ。
この3個の石を投げるという風習は、昔西坂本(今の八瀬)で山王の祭りで行われていた「御生(みあれ)祭」であり、3個の石は父神・大山咋神、母神・鴨玉依姫命、御子神・別雷神を意味しているようなのである。
坂本の日吉大社の神輿は全部で7基であるが、このうち4基が東本宮の神輿であることから、八瀬の山王が4基の神輿を持っていたことは、比叡山を挟んで坂本と八瀬が同じ文化と信仰を保有していたことを裏付けている。おそらく、古くは東坂本(今の坂本)と西坂本(今の八瀬)は4基づつの神輿を持ち、山王の祭りを共に行っていたのであろう。
しかし、いつの頃からか祭りの主体はもっぱら坂本の地に移り、八瀬では祭りが行われなくなります(八瀬の氏神が山王から天神に代わった時に神輿が埋められ、今は5月5日に春祭りが始められたようだ)。そこへ、新しい神・天神が祀られるようになり、山王の4基の神輿を2基にして、そのうちの1基を天神様の神輿としたと考えられる。
社の場所も昔の場所から今の地に移され、山王と天神を合祀したようである。その時、祭りはむしろ天神が中心となり、名前も八瀬八幡宮となったが、神輿の埋められた所は、昔の山王の社の少し下にしたのであろう。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 江戸時代中期の『八瀬記』によれば、八瀬童子と称する八瀬の祖先の鬼は、角のない鬼とされている(源頼光によって退治された大江山の鬼と、八瀬の祖先の鬼が酒呑童子の子孫であるとの伝承を否定するためであったようだ。八瀬にいた鬼が酒呑童子であるという話は、中世におけるさまざまな物語・御伽草子などで語られている)。
例えば、『(伊吹山)酒典童子(仮題)』(赤木文庫旧蔵)によれば、酒呑童子の父は伊吹大明神で、母は江州の名高い長者・須川殿の子・玉姫御前とある。そしてこの子は比叡山に登って修行をするが、無類の酒好きで、師の伝教大師・最澄に比叡山を追われてしまう(酒に酔った勢いで鬼面を被ったが取れず鬼になったという)。
山を追われた童子は八瀬の西北、鬼が洞(おにがほら)という洞窟に身を隠しますが、そこも追われて全国の山々を転々とし、ついに丹波の大江山に移ったという。この説話は、比叡山を追われた山の民(山人・サンカ・縄文人)の話と相通じる。
(※注2) 八瀬は皇室の大事(行幸や大葬)のとき駕輿丁役(かごちょうやく)をつとめるので知られている。これらの人々は八瀬童子と呼ばれ、年貢免除の特権を与えられ、鬼の子孫であることを自負していた。そして現在でも大葬に奉仕することになっている。
それは後醍醐天皇のとき、叡山遷幸に供奉(ぐぶ)した功により、綸旨(りんじ)を賜ってからのことと伝えている(1336年)。織田信長も八瀬童子の薪商売ほかの権利を認める安堵状を発しており(1569年)、また諸役免除の綸旨が下されている(1603年)。
スサノヲ(スサノオ)