この広告は365日以上更新がないブログに表示されます。

Posted by 滋賀咲くブログ at

2006年07月24日

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(四)




◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(四)

◆◇◆百人一首とかるた遊び、百人一首とは?

 百人一首は百人の作者を選び、その人の和歌の作品の中から一首(一つの和歌を一首と数える)ずつ選んで集めたものだ。六百年代から一二一六年まで、約六百年もの間につくられた和歌がほぼ年代順に書かれている。選んだ和歌集でいうと『古今和歌集』から『続後撰集』(※注1)までだ。

 鎌倉時代に藤原定家がこれを選んだという。京都にある小倉山の別荘の障子に張る紙に書いたことから「小倉山荘色紙和歌(おぐらさんそうしきしわか)」「小倉百人一首」とも呼ばれてる。

◆◇◆百人一首とかるた遊び、テーマ別と人物別に分けると

 百人一首の歌は季節や恋などのテーマに分けられる。このテーマにそって分けると、春の歌=六首、夏の歌=四首、秋の歌=十六首、冬の歌=六首、恋の歌=四十三首、旅の歌=四首、別れの歌=一首、そのほか=二十首となる。

 このほか天皇、僧侶、女性など歌をつくった人によって分けたり、田子の浦(静岡県の駿河湾)、三笠山(奈良県)、竜田川(同)など地名の出てくる歌がいくつあるか、どんな地方の地名かなど、百首の歌はいろいろなテーマで分けられる。

◆◇◆百人一首とかるた遊び、藤原定家(ふじわらのていか)とは?

 一一六二年生まれ。鎌倉時代の初めに活躍した歌人で、「さだいえ」とも呼ばれる。父の俊成(しゅんぜい)も有名な歌人であった。十九歳から七十五歳まで書いた日記『明月記(めいげつき)』や和歌について書いた『近代秀歌(きんだいしゅうか)』など、いくつかの本も残している。

 『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編纂し、七十二歳で出家して七十四歳のころに「百人一首」を選んだという。一二四一年に八十歳で亡くなった(※注2)。

◆◇◆百人一首とかるた遊び、百人一首の最初と最後

 百人一首の一首目は天智天皇の和歌「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ」で、二首目は天智天皇の娘の持統天皇の和歌。そして一番最後の百首目は順徳院(じゅんとくいん)の和歌で、その一つ前の和歌は順徳院の父である後鳥羽院のもの、というように百人一首の最初と最後には天皇親子の作品がならんでいる。

 これは定家が「この百人一首の和歌はこの時代からこの時代までの作品を集めました」と年代がはっきりわかるようにしたため、とも考えられている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 百人一首の歌は、『古今集』『後撰集』『拾遺集』『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』『千載集』『新古今集』『新勅撰集』『続後撰集』の、一万首以上にのぼる歌の中から撰出されている。

 『古今集』『後撰集』『拾遺集』を「三代集」と呼び、その三代集と『後拾遺集』『金葉集』『詞花集』『千載集』『新古今集』を「八代集」と呼ぶ。八代集は、天皇(上皇)の命により編集された「勅撰和歌集」である。

(※注2) 藤原定家の生没は、一一六二~一二四一で、平安末期から鎌倉初期の時代が大きく変わる激動の中を平安京(京都)に生きた歌人だ。百人一首では、権中納言定家とされている。

 権中納言の「権」は「定員外」という意味で、いわば中納言の補欠なのだが、中納言より上の官位は、大納言、左・右大臣、太政大臣となるから、歌人としては最高位を極めたといってもよいだろう。

 名前は、「さだいえ」とは呼ばず、「テイカ」と音読みするのが一般的だ。三大和歌集の一つ『新古今集』の撰者の一人でもあるが、『新勅撰集』、『定家仮名使い』をまとめた事でも有名で、その後の国文学に大きな影響を与えた一人である。


スサノヲ(スサノオ)


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 18:00 Comments(0)近江の文化

2006年07月24日

◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(六)




◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(六)

◆◇◆日吉大社の山王祭、酉の神事、山王祭の源流1:原始的磐座信仰と山宮・里宮の祭祀

 4月15日10時、小雨の降る中、滋賀県大津市坂本の日吉大社で山王祭のすべての式典が無事終了したことを感謝する「酉の神事(巡拝)」が行われる。西本宮にて、船路の御供の奉納の後、4日間に渡る山王祭は無事終了する。

 この日吉大社の山王祭は、全国でも数少ない古い伝統を持つ神社と祭りだ。また、延暦寺の鎮守として全国有数の大社に発展した日吉大社は膨大な祭祀組織を抱える点で他社には見られない特徴をもっている。摂社・末社108社の各祭神はそれぞれルーツがことなり、日吉社創始の複雑さをみせる(山王祭の構造は複雑で重層的)。

 まず、八王子山の山頂近くに屹立する巨石・金大厳や磐境(男女二柱)の原始的磐座信仰が基になり、里に多くの人々が住み始めると、山宮(奥宮)から集落の里宮へ山神(地主神)をお迎えする祭祀が行われるようになり(山王祭の午の神事にあたる)、恐らくこの時代(5~6世紀)にこの地の人々の崇敬によって栄え日吉信仰の源流が出来上がったと推察される(日吉大社やその南北には、多数の古墳が見つかっている)。

 八王子(牛尾・小比叡)山の祭神は『古事記』によると、大山咋神(山末之大主神)と記し、近淡海国に坐し、また(山城)葛野の松尾に鎮座の鳴鏑の神でもあると説明している(鳴鏑は雷神=水神を象徴し、古代の農業社会にとって大切な神であった。あえて比叡と松尾を結びつけたのは、恐らく両社が同系統の社会・文化を持つ人々によって信仰されたためであろうか?)(※注1)。

 やがて時代は下り、天智天皇七年(667年)に大和国三輪山に坐す大己貴神(大物主神)を大津京の遷都に当たり勧請し、大津京をはじめ、国家鎮護の神として祀られた(大比叡神、西本宮の祭神として)(山王祭の申の神事と船渡御にあたる)(※注2)。このことを祝う祭として山王祭の申の神事船渡御が行われるようになったのであろう。

 さらに都が平安京に遷り、京都が日本の中心となると、当社が都の表鬼門(東北)に当ることから、国民並びに都の鬼門除け更には国家の鎮護、方除け、魔除け、災難除けの祈願の社(京都御所の鬼門・猿ケ辻、東京赤坂の日枝神社など)とされ、延久三年(1071年)後三絛天皇の行幸がなされ、以来歴代の慣例となるほどになる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 5~6世紀ごろ、近江の琵琶湖岸には漢人(あやひと)系の渡来人が進出し、大友村主高聡(百済から来た僧・観勒に朝廷の命で天文遁甲を学んだ人)はその一人であった。彼は、推古天皇の御世、滋賀郡大友郷すなわち坂本に住んでいた。

 そして葛野の松尾は、秦氏が入植し、山城の水田開発が行われており、原始的な松尾の山神信仰に北九州の宗像神(玄海灘航行の守護神)が持ち込まれ、新しい社となったようだ。また、大山咋神を祀る神社は『延喜式』によると、近江・山城・大和・丹後・因幡・出雲にみられるだけである(渡来人との関係を暗示させる)。

(※注2) 『耀天記(ようてんき)』『日吉社神道秘密記』などの中世の日吉社関係の神道書によると、天智天皇大津京遷都に伴い、京都上賀茂の祝(はふり)であった宇志丸が日吉社の社司となって大和の三輪神を勧請し、大比叡神として祀ったという(日吉大社と賀茂神社との関連はここから生まれたのか?)。

 大和の三輪神、正式には大神神社の主祭神・大物主神はかつては大和朝廷に反抗した最も有力な神であったが、その支配に服してからは大和朝廷の守護神に仰がれ、『記・紀』の神功皇后が朝鮮の任那への出征の際、この神が祀られ、仁徳天皇が難波に都せられたときも大坂の生国魂神社の境内に勧請されたと伝えている。

 白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗れて対外的危機に立たされた天智天皇は、国政立て直しの一環として大津京遷都を断行し、守護神に最も有力な三輪神が迎えられたのだ。ただし天皇が直接三輪神勧請を支持されたとする史料はなく大神神社側が勧請に関与した形跡もなく、またその神官が動いた証拠もない。

 さらになぜ賀茂県主系の神官である宇志丸が日吉社へ入ったかも謎である。これは恐らく壬申の乱で大津京関係の史料が失われ、詳しい事情が不明に帰したからであろう。


スサノヲ(スサノオ)


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 15:00 Comments(0)近江の民俗学
QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 2人
プロフィール
スサノヲ(スサノオ)
スサノヲ(スサノオ)
豊かな水をたたえる琵琶湖を持つ近江は、古くから多くの人や渡来人が行き来して住みついた、長い歴史と豊かな文化を作り出してきた場所です。 ただ、この近江(滋賀)に住んでいるのに、どれだけ近江について知っているでしょうか? 皆さんの地域をもっと理解するためにも、自分たちの地域の祭りや文化、歴史などについて語り、理解を深めましょう!


スサノヲ(スサノオ)
オーナーへメッセージ