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スサノヲ(スサノオ)
スサノヲ(スサノオ)
豊かな水をたたえる琵琶湖を持つ近江は、古くから多くの人や渡来人が行き来して住みついた、長い歴史と豊かな文化を作り出してきた場所です。 ただ、この近江(滋賀)に住んでいるのに、どれだけ近江について知っているでしょうか? 皆さんの地域をもっと理解するためにも、自分たちの地域の祭りや文化、歴史などについて語り、理解を深めましょう!


スサノヲ(スサノオ)
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2006年09月13日

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳地図はこちら

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

湖西の安曇川に金銅冠(こんどうかん)・沓(くつ)・魚佩(ぎょはい)・金製耳飾・鏡・玉類・環頭大刀(かんとうたち)・鹿装大刀(ろくそうたち)・刀子(とうす)・鉄斧(てっぷ)などの象豪華絢爛な副葬品が発見された古墳がある。

湖西の安曇川に大きな勢力があったことが窺える。

調査により、これらの副葬品は朝鮮半島の新羅王陵の出土品とよく似ていることがわかった。

このことは、日本海から朝鮮半島の渡来人や文化が流れてきたことが分かる。

白鬚神社はそうした新羅系の渡来人が信仰した跡なのか、比良山系の比良も「シラ(新羅)」が訛ったものか・・・。

湖西道は、そうした新羅の文化が今も残る。

◆高島歴史民俗資料館

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

◆安曇川に金銅冠の副葬品と共に眠る王、鴨稲荷山古墳

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スサノヲ(スサノオ)

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Posted by スサノヲ(スサノオ) at 09:00 │Comments(5)近江の歴史
この記事へのコメント
日本のルーツ。私のルーツなど調べてみるとおもしろいですね。
スサノヲさんの知識もすばらしい。
スサノヲさんの知識のルーツはどこからなのでしょうか
Posted by船越at2006年09月12日 23:49
船越さん、コメント有難うございます。

まだまだ知らないことばかりです。

ただ、 「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本と日本人の原点と基層を調べています。

特に日本文化の独特の美意識(美的感受性)はどこから来るのか、関心を持っていますね。

素朴な信仰や風習・行事・祭りなどにそのヒントがありそうです。

またコメントお願いします。


スサノヲ(スサノオ)

◆メッセージ2
http://susanowo.shiga-saku.net/e3867.html
Posted byスサノヲ(スサノオ)at2006年09月13日 10:52
私も京都の方で「渡来1200」と言う研究会に不真面目な一員として   渡来人が日本文化の奥深いところで、大きな役割を果たしている事に浅薄ながら興味を持っています。特に太秦の秦氏について少し・・・京都洛西にこだわった地酒を心熱き人々と開発しています。また詳しくは・・・ご意見賜ります。
Posted byat2006年09月15日 16:42
風さん、こんにちは!

>特に太秦の秦氏について少し・・・京都洛西にこだわった地酒を心熱き人々と開発しています。

日本文化を考えている者として、
考えれば考えるほど日本の文化は、多層的・重層的・多面的だと思う次第です。

ただその中でも、今日まで変わらない深いところの精神に関心を持っています。
日本の基層文化というべきものです。

どうも縄文時代に醸成された世界観や自然観・プリミティブな信仰のようです。

また渡来人のもたらした文化の影響も、大変に大きなものがあります。
その中でも秦氏の影響は大きいですね!

以下のような私のブログもありますので、よければ読んでみてください。

◆京葛野の松尾大社と渡来系氏族・秦氏(一~十八)
http://kyo.kyo2.jp/e1190.html


スサノヲ(スサノオ)
Posted byスサノヲ(スサノオ)at2006年09月19日 09:54
いま、薮田絃一郎著「ヤマト王権の誕生」が密かなブームになっていますが、それによると大和にヤマト王権が出来た当初は鉄器をもった出雲族により興されたとの説になっています。
 そうすると、がぜんあの有名な出雲の青銅器時代がおわり四隅突出墳丘墓が作られ鉄器の製造が行われたあたりに感心が行きます。当時は、西谷と安来の2大勢力が形成され、そのどちらかがヤマト王権となったと考えられるのですがどちらなんだろうと思ったりもします。
Posted byさわかみat2008年10月12日 13:33
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