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2006年07月30日
◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(十)

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(十)
◆◇◆出雲の国とスサノオ命(須佐之男命・素盞鳴尊)、「八雲立つ・・・」の言霊(言語の呪術)
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を(夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁)」(『古事記』)
◇言語の呪術(言霊の思想)-宗教的価値づけ-
記紀万葉の時代の日本人は「草木語問(ことと)う」と表現しましたが、聴くことはまずそうした「草木語問う」声を感受し、その「呪術-宗教的力」に感応することから始まるとされた。そのような「声音の力」に着目した思想家が空海や出口王仁三郎や折口信夫であった。
彼らの声音の力についての見解は、霊性と身体性とをつなぐ媒体としての「声(声音の力)」に創造性、世界開示性、心身浄化力に着目し、そのことを明らかにしようとした。言霊思想は、基層的には「草木語問う」という生命的・アニミズム的な言語意識、すなわち「言語生命観」に支えられている。
それが次第に和歌や祝詞などの定型詞章に神秘的な力が宿るという「言語定型観」に結実していく。「言霊」には、「草木語問う」というアニミズム的な言語意識と、「言霊の幸はふ国」というナショナリズム的な言語意識の二つの異なる言語意識が含まれている。
『古事記』の中で、ヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治して清々しい気持ちになったスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)が、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくるその八重垣を」という和歌(短歌)を詠んだのがわが国における和歌のはじまりとされているが、さらに、その和歌は紀貫之によって、力をも入れずして天地鬼神を動かす呪的-霊的力能を持つものと捉えられた。
そうした和歌の神聖性や呪術性についての宗教的価値づけが、和歌=真言陀羅尼とする中世の思想を生み出していくのである。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月29日
◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(九)

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(九)
◆◇◆出雲の国とスサノオ命(須佐之男命・素盞鳴尊)、「八雲立つ・・・」と八重垣神社
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を(夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁)」(『古事記』)
◇通釈
八雲がもくもくと何重にも立ちのぼる、雲が湧き出るという名の出雲の国に、八重垣を巡らすように、雲が立ちのぼる。妻を籠らすために、私は宮殿に何重もの垣を作ったけれど、ちょうどその八重垣を巡らしたように。
◇由来
ヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治してクシナダ姫(櫛名田比売・奇稲田姫)を得たスサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)は、新婚の宮を造るべき土地を求めて出雲の国を流離ったとされている。須賀の地に至ったとき、「吾れ、此処の地に来て、我が心は須我須我(すがすが)し」(ここに来て我が心は清々しくなった)と云って、そこに宮を造ることにしたそうだ。故に、その地をいま須賀というとされている。須賀の宮を造り始めたとき、雲が立ち上った。そうして詠んだのが「八雲立つ・・・」の歌であったという。
◇ゆかりの地
八重垣神社(島根県松江市佐草町)は、古く佐久佐神社と称していたが、中世に大原郡大東町須賀の八重垣神社を迎え、相殿とした。社号には変遷があり、大正時代以後八重垣神社と称して現在に至っている。祭神はスサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)・クシナダ姫(櫛名田比売・奇稲田姫・稲田姫命)。古来、縁結びの効験があるとされてきた。もう一社、スサノヲ命が「吾れ、此処の地に来て、我が心は須我須我(すがすが)し」と云われ、宮殿を造った地に須賀神社がある。元々は八重垣神社も現在の須賀神社の場所に一緒に並んでいたようだ。
◇主な派生歌
「すさのをの みことを祈る ともなしに 越えてぞみまし 波の八重垣」(和泉式部)
「八雲立つ 出雲八重垣 けふまでも 昔の跡は 隔てざりけり」(九条良経『続古今和歌集』)
「八雲立つ 出雲八重垣 ひまもなく めぐみにこめよ 君がよろづ代」(源家長)
「八雲立つ 出雲八重垣 かきつけて 昔語りを 見るぞ畏き」(後嵯峨院『新後拾遺和歌集』)
「妻籠に 籠りし神の 神代より 清(すが)の熊野に たてる雲かも」(平賀元義)
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月28日
◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(八)

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(八)
◆◇◆出雲の国とスサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)、和歌「八雲立つ・・・」
出雲の国に降ったスサノヲ命は、ヤマタノオロチ(八俣大蛇)からクシナダ姫(櫛名田比売・奇稲田姫)を救い、姫を妻に得て、須賀の地に新婚の宮を建てたとされている(英雄神としての性格)。
この時詠んだ歌が「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を(夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜幣賀岐袁)」(『古事記』)(※注1)であり、『古今集仮名序』(※注2)などに見られるように、古くから和歌(短歌)の起源と信じられてきた。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1)数は、きわめて精神文化的な意味を有し、単に物量を数えるための手段・方法、記号としてのみ機能するのでないようだ。古代中国の陰陽思想では割り切れない奇数が尊ばれ、偶数は忌み嫌われたとされた。古代日本でもその影響を受けて「三」や「五」「七」などが聖数として扱われた。しかし、その一方で、中国でも「四」「八」は重視されていたようで、古代の日本ではことのほか神聖な数として「八」が好まれた。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」は本来、土地誉め・祝婚の古代歌謡であったようだが、『古事記』ではスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)の歌とする。盛んに沸き立つ瑞雲に霊力を見、そこに新妻(神に通じる霊力を持つ巫女)を迎える慶びを言う祝歌であったようだ。
「八」は単に多数である意を示すだけではなくて霊力のこもる数・呪言なのであろう。さらに「八雲立つ・・・」の歌では数詞「八」が四回用いられており、この「八」は実数としては使われておらず、数が多いことを表わす比喩となっている。
「八」のように「八百万の神」「八咫の鏡」等の神話に多用される数を聖数とよび、多数や無限大を意味すると同時に、神秘的、魔力的な力を持つ聖なる数であると考えられていた。
「八雲立つ・・・」の歌は、高天原で天つ罪(高天原での八つの罪)を犯して追放されたスサノヲ命が、ヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治して罪を贖い、地上の英雄として再生した後、結婚することを、聖数「八」を重ねて謡うことで寿ぎ承認するという意味合いを持つとも考えられる。
ある数が実数ではなく聖数としての力を発動することによって歌に神秘的な力を与え、祝歌(ほぎうた)を作る過程を、三十一文字の最初の歌が示しているようである。
(※注2)『古今和歌集』(九〇五、最初の勅撰和歌集、撰者は紀貫之)の序文は、紀貫之の和歌に対する優れた見解が述べられている。真名序(漢文序)によると、わが国では、スサノヲ命の時代から歌が始まったと書いてある(平安時代に何人かの人が書いているので、当時の通説であったようだ)。
仮名序(かなじょ、「やまと歌(和歌)は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞ成れりける・・・」 紀貫之)のほうでは、下照姫から歌が始まったと述べているようだ。 『古今和歌集』真名序(漢文序)「和歌未作、逮于素盞烏尊、到出雲國、始有三十一字之詠(和歌いまだ作(おこ)らず、スサノヲ尊の出雲の国に到るに逮(およ)て、初めて三十一文字の詠あり)」。 『古今和歌集』仮名序「世に伝はることは、「久方の天にしては、下照姫に始まり、・・・人の世となりて、すさのをの命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける、『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』」
スサノヲ(スサノオ)