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2006年07月22日
◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(二)

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(二)
◆◇◆百人一首とかるた遊び、「競技かるた」の名人位決定戦・クイン位決定戦
「競技かるた」(※注1)というのは、明治三十七年(一九〇四年)から始じまった百人一首を使った「かるた」のことである。「かるた遊び」は古くから行われてきたが、ルールを統一して全国で大会が行われるようになったのはこの年からである。
現在では「全日本かるた協会」が全国各地で年間を通して「競技かるた大会」を開いていて、小学生から大人まで約十万人もの人が参加しているそうだ。滋賀県大津市の近江神宮では毎年一月に「競技かるた」の名人位決定戦・クイン位決定戦 の決定戦が行われ、「競技かるた」(※注2)の最高位が決められる(※注3)。
◆◇◆百人一首とかるた遊び、全国高校小倉百首かるた選手権大会
高校球児の夢の舞台が甲子園であるように、高校生かるた選手にとって目標となっているのが、毎年七か八月に近江神宮において開催される高校選手権大会である。高校選手権は、大学選手権よりも長い歴史を持ち、昭和五十四年(一九七九年)八月十八日に第一回大会が開催されました。今年は、第二十八回全国高校小倉百首かるた選手権大会(競技かるた大会)が七月二十二日から、滋賀県大津市の近江神宮内の近江勧学館で始まる。全国の予選を勝ち抜いた高校の代表生徒たちが熱戦を繰り広げる。団体戦は七月二十二日、個人戦は七月二十三日に行われる。
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 現在、行われている「競技かるた」が始まったのは、明治三十七年です。もちろん、それ以前にも「かるた競技」は楽しまれていたが、ルールは場所によって様々であった。それを統一して、早く札を取るための方法を分析し、「競技かるた」を確立したのは、明治のジャーナリスト黒岩涙香でした。
黒岩涙香は新聞「萬朝報」に「かるた早取り法」の特集記事を掲載して、第一回の全国競技会を、東京日本橋の常磐木倶楽部で開催した。その後、大正時代から昭和初期にかけて「競技かるた」は全国的に広がる。 そして昭和二十三年、戦争のために中断していたかるた界を復興、統一して「全日本かるた協会」が設立され、 平成八年八月より社団法人として活動している。
(※注2) 「競技かるた」は、藤原定家によって選出された「小倉百人一首」の「歌かるた」札を使用して行なわれる競技である。現在競技かるたを行う団体としては社団法人「全日本かるた協会」があり、その傘下に全国約百の競技団体がある。競技人口は約十万人とも言われる。
競技のルールについては、一般的にはかるたと聞くと、大勢で札を囲んで、読み手が読んだ和歌の下の句の書かれた取り札を探す場面を想像する。これはいわゆる「お座敷かるた」あるいは「散らし取り」と呼ばれるゲームである。
競技かるたは、大まかなルールはお座敷かるたと同じだが、それを一対一で行ない、取った枚数で勝敗を争うのではなく、先に手元の札を無くした者が勝ちとなる点で異なっている。
また、競技かるたの試合において使用されるのは、小倉百人一首の札百枚のうち五十枚のみで、残りの札五十枚は読み手によって読まれるものの、その場には存在せず、取られることのない「空札(からふだ)」となる。この空札があるために、その場に無い札を触るお手つきが発生し、競技の面白さが増す。
(※注3) 「競技かるた」の名人位決定戦・クイン位決定戦 は、大津市近江神宮で毎年一月に開催されます。「競技かるた」の最高峰を決定する大会で名人戦は昭和三十年、 クイン戦は昭和三十二年から実施している。 全国の四段以上の選手が、男女それぞれトーナメント戦を行い、 勝ち抜いた選手が一月に現役の名人、クインに挑戦するという型式で行っている。
スサノヲ(スサノオ)
2006年07月22日
◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(四)

◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(四)
◆◇◆日吉大社の山王祭、稚児行列の「花渡り式」と激しく神輿を揺さぶる「宵宮落し神事」
4月13日昼、滋賀県大津市坂本の日吉大社で、山王祭の「花渡り式」が日吉大社の参道で行われる。その少し前の午前11時には、日本最古の茶園とされる日吉茶園で取れたお茶を宵宮場の大政所に按置された4基に献じられる。この祭りの祝詞には『弘仁の御代から茶を献む』とあって、古い時代から御茶が安産に効くとの信仰により献っていると伝えられていた。
引き続いて午後1時ごろ、地元の各町内会の稚児が奉仕する「花渡り式」が日吉大社の参道で行われ、御子神の出産をお祝いして武者姿に鎧の可愛い稚児が、花飾りと共に長い行列を作って参道を歩く。宵宮場の大政所に按置された4基に礼拝した後、西本宮に参拝する。つぎに「未の御供(未の神事)」といって宵宮場の4基に生まれてくる御子神に奉る品々が献じられる。
、その夜、夕闇迫る頃から勇壮な「宵宮落し神事」で山王祭のクライマックスを迎える。午後7時ごろ、坂本の広場(参道の石鳥居下付近)に松明を持った若者達(白襦袢に褌姿の「駕輿丁(かよちょう)」と呼ばれる担ぎ手の男達)が集まり、「(つど)といい」(集い集まるの意)が行われ、これから始まる神輿の宵宮落しをする若者達の名前が高らかに読み上げられる。この勢揃いが終わると若者達は掛け声勇ましく400メートルの参道を一目散に駆け上って宵宮場へと向かうのだ。
駕輿丁は宵宮場の大政所に按置されている各自定められた神輿につき、松明の火に照らされた神社前の産屋で神輿を激しく揺さぶる。これは、鴨玉依姫命の陣痛の苦しみを表すと伝えられている(この神輿4基は男神と女神に分かれ、その所作は若宮誕生の産みの苦しみを表現している)。
この宵宮の神輿落しは山王祭の圧巻で、神輿の前の猫足が空高く上がったと思えば、次は後の猫足を上げ搨(しぎ)という台に着くたびにドーンドーンと激しい音が4基の神輿から響き、静かな夜陰に包まれた境内や坂本の町に響き渡り、。大勢の人々で身動きできない状況の参拝者・見学者を祭りの興奮の坩堝に誘う。
8時30分すぎ、4基の神輿は少しばかり前に進められる。その時、ササラの音と共に神楽を奏し、続いて山王祭委員会が祭文を奏上される。それが終わるや否や、扇の合図と共に「とび」が一斉に高さ1メートル余の大政所から飛び乗る。すかさず4基の神輿はドッと下に落とされ(御子神の誕生を表す)、担ぎ棒が地に着くや否や待ち受けた駕輿丁が重い神輿を軽やかに担いで勢いよく、近くの鼠社の宮まで先を争って走り出す。
鼠社の宮の前で行列を整え西本宮へ渡御になり、西本宮拝殿に按置される。この時初めて七社7基の神輿が一堂に揃うことになる。そして当夜の行事を終える。
14日は、申の神事(桂の奉幣)という例祭が、早朝東本宮で、午前10時西本宮で行われる。午後4時からの「船渡御」は、下坂本の七本柳乗船場で台船に7基の神輿が乗せられ湖上を巡航する(船渡御は、大己貴神を奈良三輪山から勧請したときの伝承再現ともいわれる)。そして、15日の「酉(とり)の神事」で幕を閉じるのだ。(※注1)
※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆
(※注1) 山王祭の一連の流れを確認すると、まず山王祭は八王子山上の牛尾宮と三宮宮の神輿を担ぎ下ろす神事、西本宮で二つの神輿を繋ぐ「尻繋ぎの神事」、そして若君誕生を表現していると言われる「宵宮落し神事」、里人が若君誕生を祝う「花渡り神事」や西本宮に揃った七基の神輿が琵琶湖上に巡幸する「船渡りの神事」から成り立っている。
山から麓に神輿を降ろすのは、山上で見合いをされた大山咋神と鴨玉依姫神が、麓で結婚(尻繋ぎ神事)し、若君誕生(宵宮落し神事)となり、それを祝う行事(花渡り神事)で、「山から里」へ神が降りてくる過程を現しているといわれている。また琵琶湖上の「船渡御」は、大己貴神を奈良三輪山から勧請したときの伝承再現ともいわれ、「湖から山麓」へ神を勧請する過程を表しているという。
スサノヲ(スサノオ)