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Posted by 滋賀咲くブログ at

2006年07月27日

◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(七)




◆近江神宮と天智天皇、競技かるた大会(七)

◆◇◆近江神宮と天智天皇、「競技かるた大会」の序歌

 「競技かるた大会」の試合開始に先立って、百人一首には無い和歌が「序歌」として読まれる。現在「全日本かるた協会」では、序歌を、「難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今を春辺と 咲くやこの花」と定めている。これは『古今和歌集』の「仮名序」に王仁の作として挙げられている古歌だそうだ。

 しかし、古くは、「競技かるた大会」の序歌は必ずしも一定ではなく、百人一首の中の一首を詠み人の名前から読み出したり、あるいは他の和歌を用いたりしていた。明治三十七(一九〇四)年の東京かるた会創立以来の名読手として知られる山田均は、国歌「君が代」を好んで用いていたそうだ。「君が世は さざれ石の いはほとなりて 苔のむすまで」、また「年をへて 花の鏡と なる水は ちりかかるをや 曇るといふらん」、「みよしのの 山の白雪 積もるらじ ふる里寒く なりまさるなり」、「先づ始め 空一つよむ 注意せよ 人に取られず 鮮やかに取れ」などの和歌も用いられていたそうである。

 現在でも、毎年一月三日に京都の八坂神社で行なわれる「かるた始め」に際しては、神社に祀られたスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)にちなみ、また『古事記』によれば和歌の元祖とされ(『古今集仮名序』などに見られるように、古くから和歌(短歌)の起源と信じられてきた)、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」(『古事記』)が用いられている。また、九州の太宰府天満宮で開催される大会では、菅原道真にちなんだ「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌が用いられている。

◆◇◆近江神宮と天智天皇、近江神宮(天智天皇)は「競技かるた大会」のメッカ

 「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ」は、百人一首の巻頭の一首である。天智天皇が詠んだ歌として、多くの人に知られる有名な歌でもある。

 近江神宮の祭神・天智天皇の句が百人一首の一番になっていることから、その天智天皇の御鎮座である近江神宮で、毎年お正月に、「競技かるた大会」の名人位・クイン位決定戦が繰り広げられる。また、日本高校かるた連盟が「かるたの甲子園」として「全国高校小倉百人一首かるた選手権」を、二十二年前から毎年夏に開いている。

◆◇◆出雲の国とスサノオ命(須佐之男命・素盞鳴尊)、和歌のはじまり

 ヤマタノオロチ(八俣大蛇)を退治したスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)が、自らの宮を出雲の国に定めようとした時に、そこから雲が立ち上るのを見て詠んだ歌がある。それが「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」だ。

 雲が盛んに立ち上ることは大地の霊力が強いことを表しており、スサノヲ命は「八雲立つ」と褒め称えて、出雲の地を祝福した。『古事記』によれば、この時、スサノヲ命は、ヤマタノオロチ(八俣大蛇)を倒し、アマテラス(天照大御神)に天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ:草薙剣のこと)を献上して汚名は晴らしたとされている。その後、クシナダ姫(櫛名田比売・奇稲田姫)を娶り、出雲の国に宮を置くことになったとしている。

 これが、「五、七、五、七、七」の三一文字(みそひともじ)の和歌のはじまりと言われているのだ。この事から、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)は和歌の祖神といわれる。この和歌と関わりのある神社が出雲の地に二社ある。一社はスサノオ命が「吾れ、此処の地に来て、我が心は須我須我(すがすが)し」と言われ、宮殿を造った地に須賀神社がある。

 もう一社は、歌を読まれて新居を建てられた場所が八重垣神社だが、元々は八重垣神社も現在の須賀神社の場所に一緒に並んでいたようだ。ところが後に八重垣神社のほうが、元々佐久佐神社のあった場所に遷座してきたのだそうである。このことは江戸時代の文献に書かれており、佐久佐神社は現在八重垣神社の合殿に祀られている。


スサノヲ(スサノオ)


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 18:00 Comments(0)近江の文化

2006年07月27日

◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(九)




◆大津市坂本・日吉大社、勇壮な山王祭(九)

◆◇◆日吉大社の山王祭、山の民の東坂本(今の坂本)と西坂本(今の京都の八瀬)-1

 比叡山の麓には、山の民(山人・サンカ)など古くからこの地に土着する人々(縄文時代よりこの地に住み着いている人々か?)が住み着いていた。その人々は、比叡の山を山の神として信仰する素朴な信仰を持つ人々であったと考えられる。

 しかし、時代が下り、最澄が比叡山に天台宗(渡来系の天皇の寵僧の仏教)の本拠地を定めた時に、先住の人々は山を追われ、比叡山を挟んで東西に分かれて、麓に住居を移したようだ(比叡山の山の神信仰も天台宗守護の神・山王へと変わっていく)。

 それが昔、東坂本といわれた今の坂本と、西坂本といわれた今の京都の八瀬(鬼の住む里ともいわれ、総髪などの縄文の遺民の風習を残していたといわれる)である。

 山王は比叡山延暦寺の鎮守社としての日吉大社の神であり、比叡の山の神は土着の神である小比叡神=大山咋神(山末之大主神)と、新たに大津京(667年)を造営した天智天皇によって祀られた大比叡神=三輪明神(大己貴神、大和の三輪山の三輪神社の祭神・大物主神)である。大山咋神を祀る社を東本宮、大己貴神を祀る社を西本宮という。(※注1・2)

 京都の南にある伏見稲荷大社の神は、かつて弥生人と共存した縄文の神であった。この地に渡来系の弥生人が入ってきて、平地を稲作農業の田畑とした時、土着の縄文人は山に逃れて生活の場を変えたと考えられる。

 稲荷の神は、こうした山の縄文人(山人・サンカ)と里の弥生人との妥協の上に生まれた神と考えられるのだ。京都の北の地でも、平地に弥生人が進出してくると、多くの縄文人が比叡山の山へ生活の場を求めて入っていったと推測できる。

 八瀬の人々は、近世まで比叡山の山の薪を取り、その薪を都へ行商したりして生計を立てていた。また八瀬には鬼の伝承が数多く残され、柳田國男は「鬼の子孫」という論文で紹介している。

 山の民の東坂本(今の坂本)と西坂本(今の京都の八瀬)とは、弥生人により里を追われて山に逃れ、さらに朝廷と仏教により山をも追われて東西に分かれた人々なのである。八瀬の鬼の伝承には山さえも追われた山の民(山人・サンカ、縄文人)の哀れな末路を語っているのではないだろうか。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 東本宮の大山咋神は、古事記上巻の大年神の御子神の系譜の記述に、「大山咋神、亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国、日枝の山、葛野の松尾に坐して鳴鏑(なりかぶら)を持つ神ぞ」とある。この神を山末之大主神と呼ぶのは、この神の本来の鎮座地が牛尾山(日枝の山)で、当社の根源がこの山の祭祀にあったことを意味してる。なお、この神の妻神は鴨玉依姫神といい、相殿に祀っている。

 比叡山系の東端にある標高378メートルの牛尾山は、背後の比叡山を大比叡と言うのに対して小比叡と呼ばれ、神奈備型の整った美しい山容で、山頂には古代からの祭祀地らしく磐座があり、奥宮の牛尾神社(八王子宮)と三宮神社(三宮)がある。前者には大山咋神荒魂(あらみたま)、後者には鴨玉依姫荒魂が祀られている。東本宮の創祀が、古代の神体山信仰にもとづく、自然発生的なものだったのに対して、西本宮は、大神神社から三輪明神(大己貴神・大物主神)を勧請した神社であった。

(※注2) 『古事記』の神統譜によると、大山咋神は、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)の子の大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)との間に生まれた神とされている。秦氏の伝承では、秦氏の女子が川で洗濯をしていると、丹塗矢が流れてきて懐妊したという、下鴨神社の玉依姫と全く同じ伝承を持つ。

 「洗濯」という行為は呪術的な行為で、そこに不思議な事態が発生するとする説話が多く残されているこの神は限りなく火雷神に近い神であり、往古、大山咋神の姿は木の神(大井神社の祭神は木股神です)であり、山の神でもあったようだ。

 松尾大社の神はかつて松尾の山に坐した自然神であった。往古、その地の人々はによって、松尾分土山大杉谷(別名、別雷山)の上部の磐座に奉祀された。その神を大宝元年(701年)、秦忌寸都理が山麓に社殿を造営し、秦知満留女という斎女に奉仕させたのである。


スサノヲ(スサノオ)


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 12:00 Comments(0)近江の民俗学
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豊かな水をたたえる琵琶湖を持つ近江は、古くから多くの人や渡来人が行き来して住みついた、長い歴史と豊かな文化を作り出してきた場所です。 ただ、この近江(滋賀)に住んでいるのに、どれだけ近江について知っているでしょうか? 皆さんの地域をもっと理解するためにも、自分たちの地域の祭りや文化、歴史などについて語り、理解を深めましょう!


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