2011年12月30日

◆湖上の白髭神社の大鳥居に想いを馳せる

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◆湖上の白髭神社の大鳥居に想いを馳せる

 滋賀県高島市の白髭神社には何度も立ち寄ったことがある。

 琵琶湖西岸から急にそそり立つように比良の山並があり、僅かに国道が一本程度が通れるだけの狭い場所に白髭神社がある。

 湖中には朱塗りの大鳥居が建ち、夕日に照らされた白髭神社の大鳥居は神秘的でうっとりするものがある。

 この琵琶湖の湖西地域を通り白髭神社の大鳥居を見るたびに、古代日本海を渡り琵琶湖の辺に辿り着いた新羅系の渡来人たちの姿が目に映る。

 全国に散らばる白髭神社という神社名が、新羅系の渡来人の足跡、入植の跡を現在の私たちに語りかけてくれているようだ。


スサノヲ(スサノオ)

地域を幸せにするWebプロデューサー/神社魅力プロデューサー
http://www.ustream.tv/recorded/19336205




Posted by スサノヲ(スサノオ) at 17:11 Comments(0)近江の民俗学

2007年02月17日

◆田上山と秦氏の関わり 田上山のミステリー

◆田上山と秦氏の関わり 田上山のミステリー

なぜ田上山の木が藤原京や東大寺、平安京の造営にわざわざ使われたのかを考える前に、
唐突ではあるが、東北の「こけし」と近江の関係を考えてみよう!

ここには近江と秦氏の関係、秦氏と木材加工テクノクラート「木地師」の関係が見えてくる。

◆近江の秦氏と木地師

東北から北関東にかけて木工の「こけし」が民芸品として多く存在する。

特に福島県の会津地方は「こけし」で有名だ。今でも、福島県会津地方には「こけし職人」の方が多数存在する。

なぜ福島県には「こけし職人」や「こけし文化」が多いのであろうか?

歴史的に見ると、安土桃山時代の約400年前のことである。

約400年前、近江の武将・蒲生氏郷が会津に所領を得て、「木地師」と呼ばれる人々を近江から会津に連れて来たのである。

ここに東北の「こけし」と近江との関わりがある。

ではこの「木地師」とは何者か?

「木地師」は木を加工して、生活用品を作る人々である。轆轤(ロクロ)という回転する工具を使った木工品を作ることに長けていた。

「木地師」たちは、良質の木材を求め、全国を移動していたのである。

現在、「木地師」には、大きく二つの家があり、小椋家と大蔵家である(小椋家の「小椋」の地名のある所は秦氏が住んでいた場所が多い、たとえば小椋山とか小椋池など。また秦氏の支族にも大蔵氏がいる)。

実はこの木地師の里が、近江の東の山奥、現在の永源寺町にある蛭谷と君ヶ畑である。この辺一帯は、かつては小椋谷と呼ばれおり、小椋谷は六つ畑の一つであった。今でも、大君ヶ畑や榑ヶ畑などという地名が残り、木地師の村があったとされる場所である。

またこの近くには秦荘という地名や秦川山があり、この「畑」は「秦」を連想させる。

実はこの「木地師」の里の愛知川一帯の愛知郡は、日本でも有数の秦氏が住んでいた地域で有名であったのだ。

事実、ここには「愛知」を冠した朴智秦氏、依智秦氏が多数住んでいた。

臨済宗永源寺派総本山「永源寺」(聖徳太子の発願寺)や、琵琶湖の東に位置する湖東三山の 龍應山「西明寺」、松峰山「金剛輪寺」、釈迦山「百済寺」(聖徳太子にゆかりのある寺)の三山は紅葉の名所として知られるが、多くは渡来系寺である。

また秦川山の麓の「金剛輪寺」はもともと「松尾寺」といい、京都西にある秦氏の氏神である「松尾大社」と同じく秦氏が建立した寺である。

「木地師」の里である愛知川一帯の愛知郡は、秦氏が開拓し住み着いた土地であり、「木地師」は渡来人の秦氏であったのだ。

渡来人の秦氏は、当時の日本において最も優れた高度な技術を持つ技術集団(テクノクラート)であり、彼らの技術なくして当時の大規模な土木・建築は成し得なかったのである。

この秦氏が近江の湖東にいた事が、田上山の木材と藤原京・東大寺・平安京の造営と関係するのである。

次回、この秦氏と田上山の謎について、さらに迫ってみよう!




スサノヲ(スサノオ)


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 15:24 Comments(1)近江の民俗学

2007年02月04日

◆あなたは、「滋賀(シガ)」という文字は呼び名は好きですか?




◆あなたは、「滋賀(シガ)」という文字は呼び名は好きですか?

琵琶湖を中心に山に囲まれたこの地を「滋賀(シガ)」という。

*あなたは「滋賀」という県名は好きですか? 嫌いですか? 何も気にしたことはありませんか?

*あなたは「滋賀」に愛着はありますか? 「滋賀」の何処に誇りを持ちますか?

*あなたは、遠くに住んでいた時、遠くの人と出合った時、出身地を「滋賀」と言いますか? それとも曖昧に誤魔化しますか?(まさか京都の近くなんと言わないでしょうね!^_^;)

*あなたは、「滋賀」という県名がどうして付いたのか? また「滋賀」という名の由来をご存知ですか?


滋賀県の「滋賀」は、本来は「志賀」であったのでしょう!
いや、「シガ」という呼び名があり、後に漢字を当てたのでしょう!

・「シガ」を連想させる地名が多く存在する。

「滋賀郡」「志賀町」「滋賀里」「南志賀」「信楽」、「比良(ヒラ)」もそうなのかも知れない

・「シガ」を連想させる神社が多く存在する。

「白髯神社(シラヒゲジンジャ)」「新羅善神堂(シンラゼンジンドウ)」など

・「シガ」を連想させる人物が存在する。

「志賀漢人(しがのあやひと)」、「新羅三郎義光(シンラサブロウヨシミツ)」など

もうお分かりであろう! 「シガ」の意味を…


日本はいきなり日本になったのではない。多くの人々の交流と多くの文化の積み重ねと長い時間で、日本が形成されたのである。

滋賀(近江)も然りである。

古代、日本海が文化の表玄関であった。滋賀(近江)は、大和(奈良)への文化の流れの幹線であったのだ。

この地を多くの人々が行き来し、多くの人々が住み着き、多くの文化が伝わってきた。当然信仰も伝わってきたのである。

地名はそうした人々によって呼ばれた呼び名が今日まで生きてきたのであり、歴史の証人なのである。

しかし、地名辞典や公の機関では「滋賀県は、県庁所在地の郡名『滋賀郡』に由来し、古くは『志賀』と表記された例も見られる。『滋賀』の地名の由来には、『シカ(石処)』の意味で『石の多い所』をいったとする説と、『スカ(砂処・州処)』の転とする説がある。」としか説明しない。

どうして地名事典や公の機関ではこの歴史的事実を濁そうとするのか? 「志賀」をわざわざ「滋賀」にしたのも、何らかの意図を感じてしまうのだが…

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スサノヲ(スサノオ)


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00 Comments(4)近江の民俗学
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豊かな水をたたえる琵琶湖を持つ近江は、古くから多くの人や渡来人が行き来して住みついた、長い歴史と豊かな文化を作り出してきた場所です。 ただ、この近江(滋賀)に住んでいるのに、どれだけ近江について知っているでしょうか? 皆さんの地域をもっと理解するためにも、自分たちの地域の祭りや文化、歴史などについて語り、理解を深めましょう!


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