◆田上山と秦氏の関わり 田上山のミステリー

スサノヲ(スサノオ)

2007年02月17日 15:24


◆田上山と秦氏の関わり 田上山のミステリー

なぜ田上山の木が藤原京や東大寺、平安京の造営にわざわざ使われたのかを考える前に、
唐突ではあるが、東北の「こけし」と近江の関係を考えてみよう!

ここには近江と秦氏の関係、秦氏と木材加工テクノクラート「木地師」の関係が見えてくる。

◆近江の秦氏と木地師

東北から北関東にかけて木工の「こけし」が民芸品として多く存在する。

特に福島県の会津地方は「こけし」で有名だ。今でも、福島県会津地方には「こけし職人」の方が多数存在する。

なぜ福島県には「こけし職人」や「こけし文化」が多いのであろうか?

歴史的に見ると、安土桃山時代の約400年前のことである。

約400年前、近江の武将・蒲生氏郷が会津に所領を得て、「木地師」と呼ばれる人々を近江から会津に連れて来たのである。

ここに東北の「こけし」と近江との関わりがある。

ではこの「木地師」とは何者か?

「木地師」は木を加工して、生活用品を作る人々である。轆轤(ロクロ)という回転する工具を使った木工品を作ることに長けていた。

「木地師」たちは、良質の木材を求め、全国を移動していたのである。

現在、「木地師」には、大きく二つの家があり、小椋家と大蔵家である(小椋家の「小椋」の地名のある所は秦氏が住んでいた場所が多い、たとえば小椋山とか小椋池など。また秦氏の支族にも大蔵氏がいる)。

実はこの木地師の里が、近江の東の山奥、現在の永源寺町にある蛭谷と君ヶ畑である。この辺一帯は、かつては小椋谷と呼ばれおり、小椋谷は六つ畑の一つであった。今でも、大君ヶ畑や榑ヶ畑などという地名が残り、木地師の村があったとされる場所である。

またこの近くには秦荘という地名や秦川山があり、この「畑」は「秦」を連想させる。

実はこの「木地師」の里の愛知川一帯の愛知郡は、日本でも有数の秦氏が住んでいた地域で有名であったのだ。

事実、ここには「愛知」を冠した朴智秦氏、依智秦氏が多数住んでいた。

臨済宗永源寺派総本山「永源寺」(聖徳太子の発願寺)や、琵琶湖の東に位置する湖東三山の 龍應山「西明寺」、松峰山「金剛輪寺」、釈迦山「百済寺」(聖徳太子にゆかりのある寺)の三山は紅葉の名所として知られるが、多くは渡来系寺である。

また秦川山の麓の「金剛輪寺」はもともと「松尾寺」といい、京都西にある秦氏の氏神である「松尾大社」と同じく秦氏が建立した寺である。

「木地師」の里である愛知川一帯の愛知郡は、秦氏が開拓し住み着いた土地であり、「木地師」は渡来人の秦氏であったのだ。

渡来人の秦氏は、当時の日本において最も優れた高度な技術を持つ技術集団(テクノクラート)であり、彼らの技術なくして当時の大規模な土木・建築は成し得なかったのである。

この秦氏が近江の湖東にいた事が、田上山の木材と藤原京・東大寺・平安京の造営と関係するのである。

次回、この秦氏と田上山の謎について、さらに迫ってみよう!




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